NEOLOGISM 22303-22324 AWE(畏れ)

NEOLOGISM 22303-22324 AWE(畏れ)

2022.11.05 - 2022.11.26

西本 剛己

展覧会の概要

「天使降りるを憚る処(はばかるところ)」

昨年の10月から約半年間、ニューヨークのブルックリンで制作に集中する機会を得た。アトリエの場所は「インダストリーシティ」という、最新のテナントビルが並ぶ人気スポットのすぐ側だったが、その名が示すように、この海沿いの地域はもともと工業地帯だから、周囲には、小さなデリやらドラッグストアを挟みながら、薄汚れた工場や問屋がどこまでも続いている。ブルックリンに来て間も無く、制作用の工具を探すためにそんな道沿いを歩いていた時、得体の知れない幸福にも似た感情が襲ってきた。

潰れているのかどうかも分からない個人商店のすぐ横にスクラップ場があって、破棄された自動車がクレーンで宙吊りにされており、その周りには錆びた歯車や何かの機械の部品が堆く積まれている。そんなジャンク工場の隣は鶏肉用の屠殺場で、ケージの中にひしめくように入れられた鶏の一羽が今まさに脚をつかまれて引き出され、逆さ吊りで羽根をバタバタさせながら絶叫している。
 この隣接に、何らの直接的な関連が感じ取れない。接続されるはずのない連続、関係性を持たない不条理な連続、それがなお同時に我々の日常の根底を形成しているという事実に対して、私はそれを恐ろしく美しいと感じた。

 インダストリーシティの洗練されたショップや飲食店、それは多くの人を魅了する。しかし何度か立ち寄るとどこか虚しい気持ちがしてくる。何故だろう?おそらくそれはそのエントロピーの低さ、つまり整頓され秩序づけられた世界が、結局のところそれ以上どこにも結びついていかない自己完結、それしか私に残さないからだろう。まるで嘘で塗り固めた愛とか夢を商品にして大儲けしながら、白痴と白痴的な考えを無限増殖させているディズニーランドにも似た、虚無感である。
 それに比べ、スクラップ場や屠殺場の、理解できないような接続、この荒々しいばかりのエントロピーの高さ、その無意味に、私は曰く言い難い興奮を感じた。例えるならば、見捨てられスクラップ場に積まれた歯車の中に、ばたつかせて抜け落ちた羽毛が侵入する、そうした時に初めて新たな異形の容態が生まれ、現れ出るのではないか?そんな可能性への希望である。

 今回の個展は、「天使降りるを憚る処」と題したインスタレーションがメインとなる。これは、「知の巨人」として知られるグレゴリー・ベイトソンの「精神と自然」という書物の最終章、ベイトソンと彼の娘、キャサリンとの対談の中で語られる、次に予定していた執筆のタイトルである。しかしその前にベイトソンはこの世を去り、死後に出された最後の書物は「天使のおそれ」という、娘との共著となった。ベイトソンは偉大な人類学者、自然史学者であったが、彼の知を以ってして、考察をすればするほど、人類が彼が望んだ自然界との調和から離れていってしまう存在であることに苦悩し続けた人物であった。

そんなベイトソンの最後の言葉を僭越にも拝借した作品である。「異形の神の培養」、そんな自分にもよく分からない考えに取り憑かれながら制作を進めていた。ニューヨーク滞在中に3分の2ほどが完成し、日本に戻ってさらに作業を続けた。このインスタレーションには、ところどころに書物や書類を想起させる要素がある。これまでも、そうした形態をしばしば作品に使ってきた。私にとってそれらは、人類の知の象徴であると同時に、その敗北の果てしない歴史、壮大な無意味の集積である。

制作の最後、この作品の完成には、もう一つのパーツが必要だった。私は地元の古書店に立ち寄り、一冊の分厚く大きな辞書を購入した。おそらくは気の遠くなるような編纂作業の末に出来たのであろうその辞書は、「300円」で売られていた。私はその辞書に、どこにも繋がらない黒電話のダイヤルと、誰も応答することのない受話器を取り付けた。

                                     西本 剛己

アーティスト