2023.11.17 - 12.09
大黒貴之
この度、MARUEIDO JAPANでは、3年ぶりとなる彫刻家 大黒貴之の個展「GARDEN」開催いたします。
豊かな自然が広がる滋賀県近江八幡市で生まれ育った大黒貴之(1976-)は、大学院修了後、2001年に単身でドイツに向かい、一度帰国後、再び渡独(2011年)し、合計約6年半のドイツ滞在のなかで、彫刻、ドローイング、インスタレーションなどを発表してきました。ドイツ滞在中、環境、文化、デザインなどから受けた影響の結果、大黒はそれまでの有機性を帯びた彫刻フォルムに加えて、論理的、数学的な美を取り入れた表現言語へと表現を昇華させてきました。2016年に帰国し現在、生家がある近江八幡を拠点に精力的に制作しています。
2018年「CERES/ケレス」、コロナ感染拡大の状況下で開催した2020年「A Part for the Whole」の個展に続く本展「GARDEN」は、日本の回遊式庭園をモデルに、ギャラリーという空間の中で、視点を意識したインスタレーションとなっております。
庭園の中で、大黒が常に意識する自然と人工、全体と部分、静と動など、相反する二項の間で揺れ動いている関係性、「間-振動(かん-しんどう)」という観念が展開され、視点も揺れ動いて行きます。
庭園は自然であり、人工であります。庭園について、今回テキストを寄せた平木しおり氏は「自然は人間に作用し、そして人間も自然を作り変えていく」と記述しています。
自然の有機的なフォルムから生まれる大黒の造形はどこかで見たことがあるようで見たことがない不思議な感覚に誘われます。
また奥の和室では、2016年の帰国後、展開を深めてきた「折って、線を引く」二次元であり、三次元でもあるフォールド・ドローイングの新シリーズを展開いたします。金属と紙が併存し、素材が放つ視覚的な現象が見る側を惑わせます。
是非この機会にご覧いただければ、幸甚に存じます。
___________________________________________________________________________________________________________________________
【GARDEN】
イギリスのメン・アン・トール遺跡は「穴の開いた石」という意味で知られ、花崗岩で形成された柱と穴がコーンウォール州の草原の中に佇んでいます。彫刻家、アントニー・ゴームリー⽒は、彼の著書「彫刻の歴史 先史時代から現代まで」で、この遺跡の柱を男性の象徴、穴を女性の象徴として捉え、潜在的な再生の場として解釈しています。柱は古代からさまざまな文化において、生命の根源的なフォルムとして理解されてきました。そのことはトーテムポール、クメール王朝のリンガ、日本の御柱、そしてブランクーシの無限柱など、多くの例で示されています。
"GARDEN" 展では、花、蕾、⽊の実、種⼦、卵、細胞など⾃然界に⾒られる事物を再構築したような有機的な彫刻が、棚を彷彿させる台座、⽊枠の内側、或いは壁⾯に配置されています。それらの作品の背景には、⾃⾝が幼少の頃に見た田園の稲穂、山川の樹々や植物などの形状、琵琶湖の風景に触発された記憶によるものだと推測しています。私の彫刻は、シンプルでありながらも原始的で根源的なフォルム、例えば、穴が開いている円形、柱、もしくは雫のような要素が見られます。またはそれらのパーツを組み合わせて個別の彫刻を構築するというアプローチが試みられています。展示されている彫刻の中には、琵琶湖のヘソと言われる西の湖(にしのこ)で育成された淡水真珠を取り入れています。真珠はイケチョウガイの幼生から育てると採取するまでに約6 年の年月を要します。それはまさしく湖と貝の時間の蓄積の上に成された自然の宝石であり、琵琶湖の象徴と言えるでしょう。
アジアの極東に位置する島国の気候や環境から⽇本⼈の⾃然を愛でる眼差しや畏怖の念が可視化された事物として、権現にみられる⼟着の神々を具現化した仏像、円空彫刻、禅庭、回遊式庭園などが挙げられます。上下左右に視線を交差させながら周囲をめぐり、作品との対話を誘うGARDENは回遊式庭園の概念を暗⽰しています。若き頃のリチャード・セラ⽒が京都の禅寺の庭を⾒て、「彫刻とはその周囲をめぐることのできるものであってもよい」と実感したという史実を参照すると、GARDEN全体を⼀つの彫刻として捉えることも可能です。
⾃然的多様性が⽣み出すしなやかな⽣命の循環から形成される形や構造を還元し、それらの視覚化を試みた作品からは、全体と部分、有機性と無機性、上昇と下降、点と線、⼆次元と三次元などの⼆重構造が浮かび上がります。「⾏為」や「素材」を意識し、異質なものが併存する間に発⽣する調和美への探求は、私の制作における重要なモチーフとなっています。
________________
参考⽂献
「彫刻の歴史 先史時代から現代まで」アントニー・ゴームリー、マーティン・ゲイフォード 著 ⽯崎尚、林卓⾏ 訳、東京書店 2021年
「森の掟 現代彫刻の世界」酒井忠康 ⼩沢書店 1993年
「⽇本習合論」内⽥樹 ミシマ社 2020年
⼤⿊貴之個展「連綿 ‒ ununterbrochen -」フィリップ・ツォーベル、H.N.セミヨン執筆による執筆テキスト Semjon Contemporary Berlin 2013年
【FOLDED DRAWING】
ドローイングから発展した作品、フォールド・ドローイングは、fold(折って)drawing(線を引く)という意味が含まれています。線というのは通常、鉛筆やペン、筆などで引きますが、このドローイングに描かれている線は「折る」ことによって引かれています。その「行為」を行うことによって、フラットな紙は、折った箇所を起点にわずかに盛り上がり三次元的要素が加わります。フォールド・ドローイングの制作が展開するにつれて、穴を開けること、または銅板や真鍮板の金属素材を使用する試みもしています。金属タイプの作品も同じく、「折る」ことによってわずかに浮かび上がる凸と穴を「開ける」ことによって生まれる凹によって光と影が現れます。そこには絵画のようなイリュージョンはなく、素材の選択と行為によって導き出された彫刻という事物が現前に在ることを示唆しています。
大黒貴之
___________________________________________________________________
両義的な存在をとらえるということ
日本近世美術史研究者(博士) 平木しおり
今回の展覧会の題名をGARDENと聞いて、最初は意外な印象を受けた。庭にはいつも矛盾がある。それは、自然のものを使って自然らしく作った、どこまでも人工のものであるということである。例えば、大黒の序文にある回遊式庭園は、江戸時代では日本や中国の名所を摸したものが作られることが多かった。これらはどこまでも人間の視点で選ばれた場所のため、自然そのままというものではない。一方、大黒の作品は自然の根源的な姿を思わせる形が多いため、庭とは相容れないのではないかと当初疑問に思ったのである。しかし、これまでの展覧会カタログやポートフォリオ、そして大黒の文章を読んで、この題名がぴったりなのではないかと思い直した。
自然と人工。よく対立的に捉えられることが多いが、はたして両者は本当に相反するものだろうか。そして、そのように対立的に捉えられるほど、我々は自然を客観的に捉えているだろうか。先ほどの名所でいえば、日本の名所は和歌の伝統の中で選ばれたものが多い。ある地名が別の言葉と音が通じるという観点等から選ばれ、そこに感情、季節、情景などが詠み込まれていく。名所を選んだ平安時代の貴族たちは、京都を離れることはそうなかったため、和歌を詠むときには屏風絵を見ながら名所について歌を詠んだという。とすると、そのイメージはそもそもどこから来たのだろう。歌を詠ませる何かがその場所にあったかもしれない。このように、名所は自然であり人工でもある、両義的な存在である。自然は人間に作用し、そして人間も自然を作り変えていく。
大黒は、彫刻作品を作るときは常に木との対話が重要だと言う。どのような木材を使うのか、それに適した形は何か、工具はどの角度で入れるのが適切か、木目をどう生かすのか。材料の特質を考えることなくして、彫刻は生まれない。大黒はその対話を重ねながら、自然の存在を咀嚼して形にしている。完成した作品は、彫刻家の手を通じて取り出された自然の要素のようで、私たちに自然を見えやすくしてくれている。それらが並ぶ今回の展覧会は、名所を摸した場所が続く回遊式庭園とも通じ合う。
これまでにも、大黒は二つの対立するものを取り上げながら、その両義性を包括するように作品を作ってきた。これは、大黒がFolded Drawingと呼ぶ一連のドローイングにも通じる。初めて大黒のFolded Drawing を見たとき、一体これは何でできているのかと戸惑った。それが紙または金属板でできていて、しかも折りや塗りの工程を経たものを複数枚重ねているということを知ったときは驚いた。1960年代、画家のルチオ・フォンタナはキャンバスに穴を開けて、二次元と三次元の間にある絵画の両義性を問うたが、フォンタナの作品では切れ目の奥には網が張られている。これにより、絵画の画面によって区切られた前後の空間を意識せざるを得なくなり、結果絵画の二次性を強調している。これに対して、大黒が作り出した無数の線や穴は、三次元を目指すものである。山折りの線は盛り上がって前へ押し出されて表面に留まろうしているように見える。一方、紙をわずかにずらすことで、穴はまるで生き物の細胞組織を上からのぞき込んでいるような感覚を生じさせる。材質の違いから他の彫刻作品とは異なるように見えるが、自然の要素を捉えているという点では一貫しているのではないだろうか。一歩踏み込んでみると、彫刻作品が自然のポジフィルムなら、Folded Drawing はネガフィルムのように思える。
大黒は、Folded Drawing に意味はないと言う。たしかに、ここには意味を持ったモチーフはない。あるのは幾何学的な図形のみ。ところで、素材の可能性の探究、特に紙を紙らしからぬものに変えていく手法、そして絵画的でもありかつ彫刻的でもあるものを作り出す手法は、近世までの日本美術にも通じるものである。屏風がその一例で、ジグザグに折って立たせ、表面には絵や書が書かれ、主に調度品として使用されてきた。モチーフを盛り上げて金箔や銀箔、あるいは金泥、銀泥を使って覆い、立体的に表したものも多く存在する。その中には絵画的に鑑賞できるものもあるが、ただただ金や銀のメタリックな輝きに魅了され、モチーフの意味が遠のいていくものも多い。様々な寸法のものがあるが、置かれることで空間を別のものに変化させ、暮らしを彩ってきたのはどれにも共通する。今回の展覧会では一室にFolded Drawing を集めて展示するとのこと。そこにどのような空間が現れるのか楽しみである。
回遊式庭園をモデルに構成された今回の展覧会では、鑑賞者は大黒の彫刻を様々な角度から眺めることができる。一つの作品をじっくり見てもよいし、展覧会全体を見通して、部分が作り出すリズムと全体との調和を眺めてもよい。作品の展示には計算された高低差も付けられているので、まるで山あり谷ありの旅を疑似体験することができるだろう。そして、その経験には一つとして同じものがない。回遊式庭園を完成させるのは、自由に歩き回る主体的な鑑賞者なのだから。