辺境の宇宙

辺境の宇宙

【会期延長】 2024.03.15 - 04.06 ▷ 04.13

しまうち みか

展覧会の概要

この度、MARUEIDO JAPANでは、しまうちみかの個展「辺境の宇宙」を開催いたします。
1987年、熊本県に生まれたしまうちは、2013年に熊本市内にある崇城大学大学院芸術研究科彫刻専攻修士課程を修了し、しばらく熊本県を拠点に制作活動した後、昨年から宮崎県にアトリエを構えています。
具象彫刻を大学で学んだしまうちでしたが、2016年の熊本の震災にあった後、制作について根本から問い直し始めました。その後、国内やアメリカなどの海外のレジデンスを経験し、様式やルールに捉われない自分にとってのリアリティを求めて、自分が育った南九州の土着の文化に目を向けていきます。
そこには異界からこの世にやってくる“来訪神”の文化が残り、
その神々の力強く、奇怪で美しいその姿はしまうちを魅了していきます。
本展では、国立芸術センター青森での滞在制作で制作したテラコッタの野焼きから、来訪神のテーマの新作まで、ユーモアと強い生命力に溢れたしまうちの独特な世界観を展開いたします。
是非この機会にご覧いただければ、幸甚に存じます。

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地方論/日本人論としてのしまうちみか作品

 2021年、熊本県の御船という町にコストコが誕生した。コストコは、世界各地に展開しているアメリカ資本の倉庫型量販店の大手チェーンである。その広大な店内を、周辺地域から自家用車に乗って押し寄せた人々が、ホットドッグを頬張り、Lサイズの炭酸飲料を飲みながら、巨大なショッピングカートを押して歩きまわる。熊本の郊外に突然、アメリカの風景が出現した。
当時この町のほど近くで働いていたしまうちみかは、アンビバレントな感情を抱きながらこの状況を眺めていた。御船町長がコストコのオープンを2016年の熊本地震からの「復興のシンボル」と表現したことには違和感を覚えたし、身近な地域が巨大なアメリカ資本に席巻されていくことを無条件に肯定する気にはならない。
とはいえ、魅力的な商品があふれるテーマパークのようなコストコが、地元民に喜んで迎えられたことも事実だった。しまうち自身にも「コストコは、海の向こうからやって来て恵みを与えてくれる“来訪神”のように見えた」という。

来訪神––––それは大晦日や小正月、お盆、節分など、一年の節目のタイミングに異界から「この世」にやって来る神々のことだ。来訪神は各地の祭礼において、独特の仮面や装束を身につけた異形の神として姿を現す。
 しまうちが現在生活している南九州には、甑島のトシドン、硫黄島のメンドン、悪石島のボゼなど、きわめて個性的な来訪神たちを迎える行事がいくつも存在する。それらの神々は人々を追いかけまわしたり、持物で叩いたり、泥をなすりつけたりと、しばしば粗暴な悪戯のような振る舞いをする。が、それらを受けることによって魔が祓われる、無病息災になる、子宝に恵まれるなど、好ましい効果があるものとして意味づけされていることも多い。
近代的合理性に均されることなく祭のなかで荒々しく躍動するそれらの神々の存在に、しまうちは大いに魅了されており、それが今回の「辺境の宇宙」で展開されている作品シリーズにつながっている。

このシリーズで目を引く点のひとつは、土着の宇宙観の象徴のような来訪神と、世界を均質化していくアメリカの消費文化という、一見相反するような二つの存在が作品のなかで並置され、ときに一体化していることだ。
しまうちの作品においては、土着の神々とアメリカ風のキャラクターが肩を並べ、ともに英字のロゴ入りのTシャツ姿でたたずむ。また、地域を舞台にした神話の風景のなかに、スターウォーズの登場人物やグローバル企業の看板が登場し、時空を超えた奇妙な眺めを形づくる。
先に触れた言葉のように、「アメリカの資本や文化もまた、私たちにとって来訪神のような存在なのかもしれない」という感覚がしまうちにはあり、それが本シリーズの着想源のひとつとなっている。異界からやって来る来訪神は、人知を超えた力によって人々を祝福し、その厄を祓う。海の向こうからやって来たアメリカの資本や文化もまた、大いなるパワーによって地域に物的・精神的な恵みをもたらす。
アメリカの消費文化が来訪神と大きく異なる点を挙げるとすれば、それはいつまでたっても立ち去らないでいることだ。
来訪神の多くは蓑や笠をまとった姿でこの世に現れるが、そのいでたちは旅装束を意味しているともいわれる。しかしそれとは対照的に、しまうちの描く神々/キャラクターが身につけているのは、普段着であるカジュアルなTシャツだ。これは、彼らがその場所に居着いていることの象徴のようにも見える。アメリカの消費文化は私たちの生活様式や思考パターンに浸透し、気づけば自身の一部となってしまっている 。
日本人は、神も仏も鬼も死者も、ある意味ごちゃ混ぜにして「この世ならぬもの」「聖なるもの」として等しく畏れ敬い、ハイブリッドな信仰の形をつくりあげてきた。その融通無碍な構えは、アメリカという存在をもためらいなく自らの内に取り込んでいってしまうのだろうか。
いまも身近に息づく神話の世界観や来訪神をめぐる伝統的祭礼。その一方で、さまざまな面でアメリカナイズされていく生活様式。両者が同居し混淆することで立ち上がる独特の風景を、しまうちは身の周りで目にするモチーフや色彩を用いて、ユーモアを交え描いている。それは南九州に住む作家自身の生活のリアリティーにもとづいた、ある種の地方論であり、日本人論なのである。

熊本市現代美術館 学芸員
佐々木玄太郎
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過度に合理化が進むなかで押さえ込まれた人間の野生の力に興味があり、粘土を野天で野焼きをする等の制作をしてきました。
コロナ禍で移動を制限された日々、地方に住む私は、自然と周辺に残る祭りや民俗風習に関心をもつようになりました。これまで古く迷信的だと思っていたものが実際には、自分より大きな力と対峙する方法や既知のものではない地域独自の世界観がある ことを知りました。疫病や大地震を経験した現在の私には、新鮮にリアリティをもって感じることができました。
 南九州の来訪神には、恐ろしい容姿と大声で人々を戒めたり 暴虐武人な振る舞いをするものがあります。人々はそれと対決するのではなく、受け入れ、時にもてなし、年に一度現れる来訪神に帰ってもらいます。その様子を見て、自分には到底敵わないような大きな力をうまくかわし、結果的に主導権をもってコントロールするイメージが沸きました。


 現実には、さまざまな外圧により近代化された地方の景色の中で生きている私はそのようなルーツと正式に再接続することは不可能かもしれません。しかしそれらが同居してい るこの世界は、リアルとファンタジー、聖と俗も一緒くたに同居していて様々な境界があいまいになっています。その景色を再構築して描き映そうとしています。


しまうちみか

アーティスト

しまうち みか